いなり寿司のイラスト
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いなり寿司とは、その語源と歴史

天保4年(1833)11代将軍家斉のとき諸国に飢饉が起こりました。
それから同7年、8年と飢饉がありました。
このころ名古屋で油揚げの中に鮨飯を詰めるいなり寿司(いなりずし)が考えられたのです。
弘化2年(1845)版の「稽古三味線」に「十軒店のしのだすし稲荷さんの呼声」とあります。
この呼声というのは「天清浄地しゃうじゃう六根清浄、はらひ王へきよめたまへ、一本が1六文ヘイ~~ありがたひ、半ぶんが八文ヘイ~~ありがたひ~と切が四もんサア~あがれ~うまふて大きい~~稲荷さま~~」と町々を振りしたもの。
天保の飢饉のときから始まって大流行をしました。
十軒店というのは江戸本石町二丁目で、この角に店を張った稲荷屋治郎右衛門は大繁昌でした。
「いなりずしうまいと人を釣狐、わなに掛たる仕出し商人」という狂歌でわかるように各所に稲荷鮨を売る商人がいました。
天秤で屋台をかつぎ、狐の面を描いた旗をたて、小さい屋台の下に堤灯を3つ並べてぶらさげ、それに「稲、荷、鮨」と1字ずつ書いていました。
爼の上に庖丁と長い稲荷鮨を置いて切って売っていました。
角行燈には「稲荷大明神さま」と書き、夜になると辻に立って「お稲荷さん」とよびました。


いなり寿司は、わさび醤油をつけて食べていました。
稲荷様はたべものいっさいを司る「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」を祀ったもので、「大宜都比売神(おおけつひめのかみ)」「保食神(うけもちのかみ)」「豊受毘売神(とようけひめのかみ)」も同神だといわれています。
それがイナリとなったのは、「神代記」に「保食神腹中に稲生れり」とあるので、イネナリ(稲生り)がイナリとつまったのです。
またイネカリ(稲刈)が訛ったものともいわれています。
あるいは稲をになった化人からとった名であるとか、イナニ(稲荷)が転じたなどの説もあります。
また、伊奈利山に祀ったのでイナリと称するともいわれています。
イナリ神とキツネは大宜都比売のケツを「御尻(みけつ)」と称しました。
昔から女性の尻は繁殖のしるしであったのです。
この「みけつ」を「三狐」と書いたり、大宜都比売に「大狐姫」の漢字をあてたりします。
それでキツネは稲荷神のお使い様とされました。
大阪和泉市葛の葉町の信太森葛葉神社にはキツネを助けて、キツネが美女に化け夫婦暮らしをしますが、3年後に「恋しくば尋ね来て見よいづみなる信太の森のうらみ葛の葉」の一首を残して消えるという伝説があるから、「しのだ」はきつねの棲家、油揚げはキツネの好物ということで、この鮨を信田鮨ともいいます。
稲荷鮨といい信田鮨ともよぶのも、いずれも油揚げを用いた鮨であるからで、油揚げは稲荷神の使いとされるキツネの好物といわれ、稲荷神社の供物にされたことからこの名がついたといわれています。



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