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日本国憲法は誰がいつ、どうやって作ったのか

ゴールデンウィークの真ん中、5月3日は「憲法記念日」です。
この日、テレビや新聞では、憲法改正を求める人たちや、改正に反対する人たちが集会を開いたというニュースが一種の年中行事のように伝えられます。

どうして、この日が憲法記念日なのかというと、1947年のこの日、いまの日本国憲法が施行されたからです。

1945年8月、日本は太平洋戦争に敗れました。
軍事的に敗北し、それ以上戦争を続けることが不可能になり、アメリカをはじめとする連合国軍の要求(ポツダム宣言)を受諾して、無条件降伏をしたのです。

その連合国の要求がどんなものだったかというと、それは日本の領土はアメリカのものになるとか、日本人の財産をアメリカが没収するとか、日本人はアメリカ人の言いなりになれ、というものではなく、「平和主義、民主主義、人権尊重を柱とする政治体制をつくれ」というものだったのです。


この新しい政治体制を実現するには、まず新しい憲法をつくらなければなりませんでした。
そこで、1945年10月、政府のなかに「憲法問題調査委員会」が設置されたのです。
委員長が商法学者の松本国務大臣だったので、「松本委員会」とも呼ばれていました。

翌1946年2月8日、松本委員会から、マッカーサーをトップとする連合国軍最高司令官総司令部へ、「憲法改正要綱」が提出されました。

これは「松本案」と呼ばれていますが、松本委員会が1からつくったわけではなく、「改正」とあることでわかるように、明治時代に制定された「大日本帝国憲法」をベースにして、それを改正するかたちで新しい憲法案がつくられたのです。
したがって、根本的に「国のあり方」を変えるような内容にはなっていませんでした。

ところが、その内容は、GHQに正式提出される一週間前の2月1日、毎日新聞によってスクープされてしまいました。
それを読んだGHQは、日本人につくらせると、明治憲法とさして変わらないものになってしまうと考え、GHQで草案をつくることにしたのです。

こうして、実質的には、アメリカが日本国憲法の草案をつくることになったのです。

それは「マッカーサー草案」と呼ばれ、2月13日に日本政府に手渡されました。
スクープされた2月1日から作業をはじめたとしても2週間、正式に日本側から草案が出てから着手したのだとしたら、わずか一週間で書かれたことになります。


マッカーサー草案を日本語に翻訳し、それに基づいて日本側の案がまとめられ、CHQとの折衝を経て、国民に「憲法改正草案要綱」として発表されたのは、3月6日のことでした。
それから一か月後の4月17日には、正式な「大日本帝国憲法改正草案」として、内閣から公表されています。

それと前後して、4月10日に、はじめて女性にも選挙権が認められた総選挙が行われ、5月22日に吉田茂内閣が成立しました。
憲法改正草案は、6月20日に帝国議会に提出され、衆議院では8月24日、貴族院では10月6日に、それぞれ若干修正されたうえで可決されました。

こうして、明治憲法下での帝国議会で、形式的には明治憲法を改正するというかたちで、日本国憲法は成立、1946年11月3日に公布され、半年後の1947年5月3日から施行されたのです。

この日付には、深い意味があります。
5月3日はいまでこそ、憲法記念日としてゴールデンウィークの真っただ中ですが、それまでは、なんでもない日でした。
意味があったのは、11月3日のほうです。
これは、いまは「文化の日」となっていますが、そもそもは明治天皇の誕生日で祝日だったのです。

どうやら、政府のなかに、「明治憲法はなくなってしむが、なにか『明治』とのつながりをもたせたい」という意向があり、11月3日を公布日としたようです。
5月3日のほうは、その半年後から施行ということでそうなっただけで、深い意味はないようです。



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